モハメッドの風刺漫画をヨーロッパ各国の新聞が掲載したことで、イスラム社会で強い反発が起こっていることについて、色々考えてしまいました。

どんな理由があるにせよ、暴力に訴えるのは許されないと思いますし、一刻も早い事態の沈静化を願うばかりです。

決して、どちらの肩を持つという訳ではありませんが・・・。

今回ヨーロッパ各国が掲載に踏み切った理由として、「言論・表現の自由」が掲げられていました。しかし、自国と違う民族や宗教の精神性や価値観を踏みにじる行為は、「自由」というひとことで済ませられるものでしょうか。

それは、物理的な暴力ではなくても、マスメディアという媒体を使った表現の暴力なのではないかと感じてしまいました。

モハメッドがミサイル付きのターバンを巻いている絵を描いた風刺漫画家は、はたしてイスラム教について、小学生が読むような新書でもよいから読んで理解し、責任をもった上で描いたのでしょうか。それとも、壁にスプレーで落書きするような安易な気持ちで、描いたのでしょうか。

個人的に、イスラム美術のアラベスク(幾何文様、唐草、植物文様)の美しさに魅了され、なぜそれが発達したのかという理由に、イスラムでは例えどんなに崇拝する聖人でも決して姿に表してはいけない、それをすることは冒涜だから、神殿を彩るそれらの美術がこれほどまでに美しく発達したのだということを知りとても感銘を受けた記憶があります。

そのような精神性をもった世界の人々に、今回のような汚らしく低俗に表現された漫画がいかにショックだったかは、想像に余りあります。

20世紀末、ヨーロッパで、宗教・民族間の紛争で沢山の方が亡くなられました。

宗教は違っても、隣人として仲良く暮らしていた人同志が、一瞬にして敵同志になってしまう・・・そんな悪夢から、21世紀になった今も、何も学ぶものはなかったのでしょうか。

多分、自分が無宗教なものですから、一歩ひいて見られるという感覚はあります。もし、自分も熱心ななんらかの宗教の信者で、実際にヨーロッパで起こったテロで近しい人を亡くしていたりしたら、もっと違った見解を持ったかもしれません。

今回、そのテロの被害者だったイギリスは、あえてこの記事の転載を自粛したそうです。宗教や肌の色で、それに属する人々を十羽一からげに判断するということを続けていては、いつまでたっても本当の平和は訪れないと感じてしまいました。

ジョン・レノンの「イマジン」が一時マスメディアで検閲状態になったアメリカで、小野ヨーコさんが新聞の一面を借り切って平和を訴えたことが脳裏をよぎりました。マスメディアにおける本当に勇気ある表現、「言論・表現の自由」とは、こういうことを言うのではないかとしみじみ考えてしまいました・・・。